memorandums

日々の生活で問題解決したこと、知ってよかったことなどを自分が思い出すために記録しています。

葬儀、からの、後片付け

昨年の12月31日にこの記事を書き始めたのですが、今はなんと。。。1月7日です。あっという間に時間が過ぎてしまいましたが、たぶん、1ヶ月もすると忘れてしまうので。。。思い出しながら書き残しておきたいと思います。もちろん、僕自身のためと、たぶん、ほとんどの方が経験するであろう親の死に際の出来事を実感していただく機会として。時を戻そう。

昨日、やっと福岡に戻ってきました。少し落ち着いたので忘れないうちに書いておきます。以下の続きです。

12月24日に訃報の連絡が入り、すぐさまネットでチケットを予約して12月25日に福岡⇒千歳の直行便で移動しました。

コロナのおかげで直前でも予約ができ、かつ、航空券代も通常料金でした。不幸中の幸いでした。

12月25日12時には千歳についたのですが、特急がなかなかこず1時間くらい南千歳で待ちぼうけ。。。仕方がない。。。やっとついた特急に乗り東室蘭へ。

千歳はそれほどでもなかったのですが、室蘭は大雪でした。自宅まで向かうタクシーは雪で滑りまくりでした。

自宅についてみると、前夜から布団の上で寝ていた父の亡骸がありました。

親族の方々が見守る中、葬儀社の方が病院着からお棺の中に入れるための白装束?に着替えをしてくれていました。

いとこのMちゃんがずーっと鐘を鳴らしてくれていました。着替え中にはそうするらしいです。今でも頭の中で鳴っている感じがします。

昨年の初め頃からものすごい量の痰が出るようになり、札幌の病院に検査入院した結果、食道がんのステージ4と診断がありました。

部位と年齢的に手術不可と診断があり、抗がん剤放射線治療を2ヶ月くらいしました。

治療の結果、癌は小さくなり自宅療養に切り替わりました。

このときに、福岡から家族で会いに行ったのが最後でした。2週間もしないくらいで具合が悪くなり再入院し、食道と気道が繋がってしまい誤嚥の可能性があるため胃ろうを造設しました。

癌についてはこれ以上の治療は不可と診断があり、地元、室蘭の病院に転院することになり。。。そこで最後を迎えることになりました。

春にはまったく元気だった父が8ヶ月後には骨と皮の状態になり最後を迎える。。。人間の死期を決めるものって一体なんなんだろう。。。と改めて思いました。

話を戻します。

白装束に着替えた父の頭を撫でるともうすっかり冷たくなっていました。

雪が降り続く中、自宅にお棺が運びこまれて、みんなで父を持ち上げて入れました。

棺の中に娘たちが折った千羽鶴を入れました。とってもキレイでした。

娘達が書いてくれた手紙もいれてあげました。それぞれが父にお別れの言葉を書いたのだと思います。天国で読んでくれていることでしょう。

親族がそれぞれに10円玉を入れました。

通夜と葬儀は自宅から車で10分くらいにあるお寺さんで行うことになりました。生前から父がここに入りたいと準備していたお寺さんだったようです。

喪服に着替え、コロナ禍にも関わらず、父の兄弟が集まってくれました。久しぶりにお会いする方々でした。

お通夜が終わり、祭壇前に食事スペースが設けられ、夜3時くらいまで感染に注意しながら叔父・叔母・従兄弟達といろいろな話をしました。

ときおりお棺をあけて父の顔をみたり、好きだったビールや焼酎を祭壇にあげて一緒に飲んだりしました。

最後まで残った叔父3人と弟とで5人で祭壇前に布団を敷いて仮眠しました。

翌日、葬儀があり、終了後、最近リニューアルされた火葬場に行きました。炉に装入される前に最後のお別れをいい、1時間半くらいで骨になりました。。。言われるがままにみんなで箸で骨を集め箱に収納されました。

お寺に戻って、皆様とお別れしました。

母と弟と葬儀社の方から精算について説明があり、香典と香典帳をいただいて帰ってきました。

自宅に帰ってすぐに葬儀社の方がダンボール製の祭壇を組んでくれて、遺影と位牌と遺骨(大と小)と花かごが並びました。

お通夜から葬儀まで、ここまで覚えている出来事を淡々と書きました。そのときどきの映像は浮かんできますが、感傷的になる余裕があったのは本当に瞬間瞬間でした。

お通夜や葬儀中に住職さんがお経を読み上げている最中に「あ〜もう会えないんだな〜」と思い出すと。。。こみ上げてくるものがありました。

自宅に骨となって帰ってきた父と、父の生まれ故郷である白糠町のシソを使った「鍛高譚」という焼酎をコープサッポロで買ってきて一緒に飲みました。

生きているときにもっとこういう時間を作るべきだったなぁ。。。と思ってももう無理です。それでも、身体はなくなったはずですが、不思議とどこかにいるような気がする感覚があります。人の記憶の中に生き続けるのですね。そんな気がします。

ここらで終えたところですが、まだ、あります。。。ゆっくり感傷に浸っている暇はありません。

父は家主であったため、死亡に伴う、様々な手続きを進める必要がありました。手続きに関しては、近くに住んでいる叔父が調べ上げてくれていました。

この叔父には入退院の送迎から母のサポートまで1年間くらいずーっとお世話になりました。退院や葬儀社やお寺との連絡もすべて引き受けてくださいました。叔父がいなかったら。。。考えられません。

一応、僕も調べてみたのですが、死亡後の手続きについて書かれたサイトはたくさんあるのですが、業者のものだったり市役所のものだったりで、自分のケースにあったリストを作成するのは時間がかかります。

一応、以下にリストを示します。父が8年くらい前に直腸がんでストーマになっていたので身障者となっていました。その関係の手続きも含まれています。家の名義変更はこれからです。これも叔父のサポートで進めていただけます。母は実印をもっていないので印鑑登録も必要です。マイナンバーカードも持っていないので保険証だけでは本人確認ができず面倒です。車の名義変更もこれから弟がしますが身障者で納税免除だったため納税義務が発生し大変なようです。

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私も弟も年末で仕事を終えて帰郷したのですが、葬儀の翌日である12月26日と27日は土日のため役所にいけませんでした。

この2日間の間に3人で申請に必要な物探しをしました。返却する各種証明書やあれこれです。父が元機械整備のエンジニアで几帳面だったせいか、探す手間はそれほどかかりませんでした。整理したものを探すのに時間はかかりましたが。。。運転免許証は最後まで出てきませんでした。。。翌日、警察署にいって事情を話すと「更新されなければ免許は失効するし、免許証には顔写真がついているので悪用されることはありませんよ」とのことで一安心でした。

12月28日に弟が市役所と年金事務所へ、私と母が病院の精算やATMの残額引き落としやスマホの切り替えなどをしました。。。1日かけて上記のリストの8割くらいを終えることができました。

もし、この手続を母が1人でやるとなると。。。無理。。。と思いました。まず足がありません。何が必要でどこに行かなければならないかを理解することも難しいでしょう。

昼に合流したときに「こがね」でたべたカツ丼です。室蘭といえばこがね。こがねといえばカツ丼です。美味かったぁ〜。

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12月29日に、叔父に来ていただいて、昨日まで作業完了した分について説明して引き継ぎをしました。残りは新調したスマホの使い方を母に教えたり、自宅の整理をしました。

12月30日は初七日でした。住職が朝9時に自宅まで来られてお参り。13時の便だったので、弟に千歳まで送ってもらい、帰宅しました。

なんか、もう忘れたこともたくさんありそうですが。。。今、覚えていることを書きました。

これから、あとから届いた香典のお返しをしたり、年賀状が出せなかったので寒中見舞いを作って送付したり、2月に予定している四十九日後に送る、お返しの宛名・封筒作りなどを進めています。

半年か1年くらいしないと落ち着かないですね。。。たぶん。

我が子が産まれてくる様子を目の当たりにしてきましたが、近親者の死去にこれだけ密接に関わることは初めてでした。

死に際、父から「お前も気をつけろよ」と言われました。

僕も父に似て酒好きなので気をつけないと。。。

末期の父は本当に辛そうでした。

喉に問題があるため、痰を吸い出す管が通せません。

自力で出そうとするのですが、粘性の高い痰を出すほど力だなくなり、呼吸するのが非常に辛そうでした。

教訓を活かしたいと思います。

あ〜父に会いたい。