コンピュータ教育をメインテーマにした5,6年くらい前からIPSJのCE研にお邪魔している。昨日、今日と研究会があった。ここ1年は国内研究会に投稿する時間がなくて聞き専門になっている。。。貢献できずすいません。せめてと思い研究会にはできる限り参加している。というのもハイブリッド開催なので自宅で作業しながら聞けるため、というのも大きい。こうなるとコロナという世界的な脅威も終わってしまえば(終わってはいないが)よい効果をもたらしてくれたんだなと思う。
研究会のプログラムは以下で公開されている。
ここに限らずだが、AI案件がほとんどを占めている。特にチャットボット。解説記事が多いのではじめやすさもあるんだろうと思う。私はアプリケーションとしての意義や面白さはもちろん認めるものの、プロンプトでしか制御できない世界がどうしても嫌で関わろうともしてこなかった。
でも、今回改めてご発表を聴いてみて少し考えが変わってきた。
教員側からするとチャットボットを採用したい動機としては、学生への対応を省力化する点があると思う。要は猫の手も借りたい、あれである。
でも、学生からすると、教員に聞くよりはAIに聞いた方がよいという感覚があるんだろうと思う。
私はよく「わからないことがあったらSlackか直接聞きに来てね」と言って演習を終える。でも、実際に聞いてくるのは1人か2人。何となくだが、大学入学以前の教員との関わり方が影響しているように思う。先生に聞き慣れているかそうでないか、ということ。個人的には私に聞かなくても友人同士で解決できればそれはそれでよいと考えていた。
で、どうして教員に質問するのが嫌なんだろう?と思ったときに「面倒」「質問の仕方がわからない」「わかっていないことを知られたくない」「何度も質問するのは恥ずかしい、とか億劫とか」と色々考えてみたがあくまで教員の立場からの想像に過ぎない。つまりよくわからないのである。でも、AIには感情はない(←今のところ)のだからAIであれば聞いても気分を悪くすることはないし恥ずかしくもない。気楽なのだろうと思う。これは教育シーンだけではなく一般的なことだと思う。
ここでちょっと考えてみた。
(今のところ)AIは確実な回答を得ることが困難な場合があるが、教員であればほぼ確実に正解に導く回答ができる。これを前提とした場合でかつ、できるだけ質問して問題を解消して欲しい(挫折してほしくない)ということを実現するには、入口はAIチャットボットのように見せておいて、裏側では教員が回答している、というシステムはありだろうか?といことである。チューリングテスト的なシステムである。。。リアルタイムで回答することは難しいとしても、質問を集めることはできるだろう。名バレするのが嫌なら匿名化してしまうのもありだろうと思う。その質問と回答を学習することで半自動回答とかできるようにしてもいいかもしれない。AIと人間のハイブリッドシステムである。次回の科研まで考えて申請してみようと思ったり思わなかったりする。
やはり思うのは、以前にも紹介したが米国の大学で教員の部屋の前に課題の助言を求める列ができているという話があった。でも、日本でこういう感じになるのは見たことがない。文化の違いだろうか?学生と教員の距離の違いだろうか?課題や成績に対する厳格さ(米国大学の方が卒業しにくい)のせいだろうか?
そもそも、うまい先生は、学生に不必要な負荷はかけないし残って課題に取り組まなければできないようなこともしない。うまいというのは教員側からみた仕組みづくりのうまさである。スマートともいえると思う。そういう仕組み作りができればいいと思う。学生として「快適に」「達成感が得られて」「自己効力感が増して」その先に「関心をもつ」があるのだと、いきなりハードな現実を突きつけるより、そういうイントロダクション的なアプローチで課題や演習を設計するのもありだな、と最近は思うようになっている。
と考えてくると、つまり、有用なチャットボットの開発はこれからも続くだろうし間口の広さから研究成果も増えていくのだと思う。その半面、こういう問い合わせが必要とならない(できればその場で解決できるような)課題設定や演習設定にするという方向性も必要なのかな。。。と思った次第である。
ちょっと余談になるが、以前、鎌田先生の影響で論語を読みたくなったので少し読んでみたつぶやきを書いた。さらに、どうしてこんなことを考えようとしたのかも知りたくなった。孔子という人である。Unlimitedで以下のマンガが読めた。なんかとても良かった。いい時代である。
孔子も先生であった。多くの弟子から尊敬されその影響力から論語などの著書が弟子の尽力によって生まれた。こんな凄い影響力ってあるだろうか。。。マンガでは本当に魅力的な人物として一端が紹介されていた。
このマンガを入口にして興味をもち、さらに本体を読んでみたいという気になったりする、ことを振り返ってみるとやはり入口って人にやさしいインタフェースであるべきなんだと思う。もし、論語の訳本がない状況では興味を持っても読もうとするにはハードルが高すぎる。今の資料は転職当時に作成したものを長年かけて学生の状況にあわせて変えてきた。しかし、考え方はずーっと変わっていない。今の教え方というものがあるような気がしている。今やネットで話題の以下の本がある。そういえば先日、久しぶりに丸善に行ったときに表紙を見かけたことがあったけど手に取らなかった。
今の教え方とは、とにかく手を動かすこと、これは以前から実践しているツモリだけど。。。長々話しても聞いたそばからこぼれていくから、その場で言ったことを確かめられるようなものであって欲しいだろうと思う。できるだけその内容が細分化されていることである。これも長々と人の話を聞くことが難しい時代への対応である。Progateなんかがまさにそれである。ステップバイステップで学ぶ。初学者にはこれである。経験がついてきたら長い話も理解できるし、動画やマンガより手順だけ書かれたものでも十分に理解できる。その観点では資料が作れていないのが反省である。
なんか色々書いたけど20年やっても正解がわからない。。。それが教育なんだろうなと思う。「これはいける!」と一瞬思っても「ダメだ。。。」の繰り返し。世の中も動いているし環境も変わっている。それに合わせて人も変わっている。「若い人」ではなく「今の人」が教える学ぶは考え続けなければならないんだろうな、と思う。論語のような長く読まれるようなIT技術書はあるのか。。。作れる気がしないが、パッと頭にうかぶのは人月の神話くらい。といってもこの本でさえたった50年である。でも、この本は恐らく論語になり得るのかな、と思うけど。でも、それは人がソフトウェアを作り続けるとしたら、という条件付きである。AIがソフトウェアを生成しだしたら。。。?である。