memorandums

日々の生活で問題解決したこと、知ってよかったことなどを自分が思い出すために記録しています。

一から何かを生み出すことの価値

私は授業を考えるときに、手元にある知識や技術を組み合わせて何かを生み出すこと をベースにする(どんな授業も積み上げ型だから結局はそうなるのだろうけど💦)。

現状、モノに溢れいてる時代であり、ハードもソフトも既に先人が考えて世の中に発信したアイデアや製品や素材で溢れかえっている。そんなときに一から作ることにどんな価値を覚えるのだろうか?

学生さんと日々触れていて特に自分の上記にあげた考え方の根本が何かしらズレてきているのかもと感じることがあってモヤモヤしているのでこれを書きながら少し考えているところである。

自分も若いころは長く苦しいことは嫌いだったし、できることなら楽な方法があるならそれを使いたいと思ったものだった。便利なものに興味がないわけではなかったし、できるなら楽ができる方法を考えていたりした。例えば、英単語を暗記するのって意味ないのでは?と思ったときに、紙の分厚い辞書を調べながら「これってパソコンで調べられたら紙なんていらないよな〜」と思っていた。まだ、電子辞書が出る前の話である。電子辞書の先駆けはソニーのDATA Discmanだったと思う。

脱線した。

なぜ、最初に挙げたこと(小さなことを組みわあせて何かを作る)を好むのか考えてみた。

自分ではレゴは好きだった。うちはレゴではなくダイアブロックだったが。小さい頃に弟と何時間でも遊んでいた記憶がある。積み木も好きだった。科学館(文科省?)が主催していた発明工夫展なんかも、身の回りのものを眺めては何かできないか考えることがこよなく好きだった。

小さい頃にみたアメリカの映画やドラマには、窮地に追い込まれたときになぜか身の回りの道具を組み合わえて問題を解決する何かを生み出すシーンってのが流れて、それをみていつもワクワクしていたものだった。日本だって戦後、何もないところから街や会社を起こして成長してきた流れがあるのだから、そういうフロンティア・スピリットってのは好きな方なんだと思っていた。これってとても大事な価値観だし、いまでも大事にしている。

でも、である。

今や、何かわからなければGoogleがあり、LLMをベースにした問い合わせができる。欲しいと思った情報はもちろんモノだって手に入る(豊かになったという点で)。

何が書きたいのか見えなくなってきたが。。。要は、今はイメージしたものを過程を踏まずにいきなり手に入れることができる って感じている、ということを言いたかったのだと思う。

実際に学生さんも与えた課題を楽にやり過ごすためにググって似たようなコードを探すことはよくあるようだし、ChatGPTを使ってコード生成する場合もあるんだと思う。今後、LLMが強化されるほどに、益々、この流れや価値観は増していくのだと思う。考えなくても調べれば見つかる。まさにそれである。細々したこと(というか関心がないこと)をじっくり考えることが嫌いだしできるだけ嫌いな時間は早く終えたいという価値観がある。そりゃわからなくはないけど、考えることに価値があり、その人さまが考えることが嫌なことを考えて答えを出すからこそお金がもらえるわけで、もっというとそういう考えること自体が娯楽にもなったりするわけで。なぜ若い頃って考えることが嫌いだったんだろう。。。自分でも不思議に思う。

ちなみに課題の方だが、自分で作ったものか生成したものかはわからないし知りたくもない。自己責任の時代だから。それでも、まだ僕には良心が少しは残っているらしく、課題提出だけでは終わらず実技試験を課している。これができれば身についたといっていいでしょう、という判斷ができるコーディングテストである。

ちょっと脱線するが、なぜ日本のIT企業はコーディングテストをしないのだろうか?韓国から来た学生さんは自国で就職するときにコーディングテストが必ずあるのだそうだ。日本みたいに春に一括採用ではなく年中採用しているっていう話もある。日本はまだまだ理系も文系も関わらず入ってから教育するから大学で身につけたことは忘れていいよ、と言っているようである。私が学生だった頃は日本でも情報系学科が出始めた頃だったから仕方がないと思うけど、今でさえそうだというのだからいかに大学教育があてにされていないのかがわかってちょっと悲しくなる。。。僕の認識が間違っていたら教えて欲しい。受託研究とかだけではなく人材教育面でももっと連携していけるところはしていったらいいのになぁと思うのである。

話を戻そう。

一から作るといえば、何と言ってもこの本だと思う。

www.oreilly.co.jp

コンピュータ、OS、コンパイラをスクラッチから自作する系の本はどれも好物である。

CPUの創りかた

CPUの創りかた

Amazon

いまなら、自作とくれば以下の本だろう。「一から」ではなくゼロからであるから相当なものだと思う。ちなみにこれゼミでやったけどなかなかしんどかった。木を見て森を見ずという感じになる。

プログラミングに限らずだが、 原理を知ってしまえば応用ができるようになる 。そして、一から考えたとき、あるいは自分で真似して作ったときにこそ自分が確実に理解したことを実感できる、という体験的な価値観も根底にある。だからこそ、自分で考えて手を動かして試行錯誤して(失敗しろとはいわなく)何か結果を生み出した経験をして欲しいし、そういう機会を大学の中でも提供していきたいと考えているし実践しているつもりだ。ただ、そういう話に乗ってくる学生は本当にわずか。100人に1人。いやもっともっと少ないだろう。学生は我々が学生だった頃よりはるかに忙しい。それはわかる。常に人と繋がっている環境で「超暇」というスキマはほぼゼロ。なにせタダで動画にアニメにマンガにゲームに。コンテンツで溢れかえっているのだから。

そういえば、ファブラボっていう精神のもとになった授業もこの一から何かを生み出すという価値観から出発していたのだと思う。

pr.nhk-book.co.jp

流行っていた10年くらい前と比べると、残念ながら広がりは見えてない。。。福岡もたくさんあったファブラボが消えていった。Maker Faireとかはまだまだ盛り上がっていると思うけど、でも、裾野は広がっていかない感じがしている。もちろん受益側の人がいなければ作る側は生活できなのだからしかたがないのだろうけど。。。ニッパチじゃないけど、人類にはそんなコードが埋め込まれているのでは。。。とさえ思えてくる。

一から作りだすことをカッコいいと感じる価値観は消えていくのか?あと少し現役の時間があるので時代の流れに乗りながら眺めていきたい。

◆ちょっと追記

書き殴ったあとに読み返してみると(いつもかもですが)前半の文章はめちゃくちゃですね。。。すいません。勢いで書いているので。修正はしません。時間がもったいないので。

あ、追記しようと思ったのは、これを書いているときに「あれも書いておきたい」と思ったことを忘れてしまって。。。いま思い出したので。

以下のオライリー本の序文を読んでたときにファインマン先生の言葉が目に入りました。あ、これだ。有名な言葉なんですよね。。。知らなかったですが。これもつくづく思うことで、レベチなんでしょうけど、偉い人もそういう感覚を持たれていたんだな、と思うと嬉しかったりしたのでした。

www.oreilly.co.jp

What I cannot create, I do not understand.(私が自分で作れないものは、私が本当の意味で理解していないものだ)

「簡単な言葉で説明できない」ならあなたは「理解」していない - GIGAZINE

正確に早く作るには便利なものを利用すればいい。でも、対象を本当に理解するにはそれを自分で作るのがいい、そういうことです。まぁ、これも時代とともに変わっていくのかもしれません。