卒業研究も佳境に入ってきました。今週の土曜日に公聴会というか発表会があります。本日、ゼミ生8名分のプレゼンをチェックしました。そこでのやりとりで気づいたことがありました。
少し前置きになりますが、プレゼン資料の前に予稿集用の1ページの原稿を作成してもらいます。毎年ですが、この原稿を細かくチェックして論理展開を仕上げてから、プレゼン資料作成、論文作成に入ってもらってきました。
そこでの指示は「ここはこれではわかりにくい」「こう配置した方がいい」「ここはグラフを使って視覚的に」「ここは全体構成図を載せて登場人物の役割と関係を見せた方がいい」などと具体的な修正箇所の指摘でした。
このチェックでOKが出るまで仕上げれば良い骨子ができるし、その技術も身につくと考えてきました。
しかし。。。これまでもよくあったことですが、気になるところを細かく指摘すればするほど「修正待ち」になり指示したところ以外は直さなくなります。
こんなことをいくらやっても、自分自身で自分の原稿をチェックできるようにはなれません。多少はよい原稿が完成し、プレゼンもそれなりのレベルのものができるのかもしれませんが、それはもう教育ではなく作業になってしまいます。
そんなことを考えながら、何かの本で読んだ以下のような言葉を思い出しました。
「教えてはいけない」
「気づかせなければならない」
「自分で気づくような質問を投げかけること」
自分で気づく目を持つ。そうでなければいつまでも指示を待つ人にしかなれません。私が間違っていました。。。
そんなことを考えながら、ついさきほどゼミ生に送ったメールが以下です。スマホで打ったので文章がまとまっていませんが。。。編集が面倒なので多少の修正を加えてメモしておきます。自戒も込めて。
プレゼンの指導は今日のが最後です、と伝えました。この意図は?
細かく指摘や指示をすればその箇所は良くなるでしょう。
でも、気になったところをこうしたらいいんじゃない?と伝えたら「じゃ、修正します」という返事が返ってきます。
そりゃそうです。
自分で気づかないところをチェックしてもらっているんだから、指摘されたら直すのが当然かもしれません。
でも。。。僕が間違っていました。
こんなことをやっていてはいつまでたっても自分で自分の資料をチェックすることができません。
レジュメのチェックもやりすぎたように思います。
「知識や経験がないのだから、教えてあげなければできないのは当然だ」少なくとも私はこれまでそう考えてレジュメは特に時間をかけて指摘して修正してもらってきました。
でも。。。では、同じことを後でやったときに自分自身で修正指示を出すことができるでしょうか?恐らく、難しいでしょう。。。そうなるとこれは学びではありません。ただの作業になってしまいます。
どんなプレゼンでも間違いではありません。(唯一の)正解探しは止めましょう。自分の作った目の前にあるプレゼン資料ももちろん一つの答えです。それがみなさん自身が伝えたいと考えた結果であり、今のところの精一杯の成果なのです。
ただ、唯一の正解はありませんが「より良いプレゼン」はあります。作り終わったプレゼンをあとはいかに磨くかが重要になります。
どうやって磨くか?
自分は説明する対象に関する十分な知識をもっています。一方、聴衆が等しくその知識を持っていることは期待できません。聴衆が唯一頼りにするのは、みなさんが作ったスライド、その説明をする言葉だけです。
自分のプレゼンをじっくりゆっくり1枚ずつ声を出して読んでください。頭を空にして言葉の響きを感じて、その言葉から連想されるイメージを頭の中に描きます。あとのスライドや説明がその情報とうまく繋がっているか?迷わないか?十分か?冗長すぎないか?確認します。それがしっかり繋がっていれば大きな問題はないでしょう。
いきなり上達するなんてありえません。
みなさんもこれから10年20年かけて自分のプレゼンのスタイルを確立していくはずです。そのときに最も大切なのが自分でチェックする目です。
あと数日あります。
プレゼン資料、チェックしてください。丁寧に作り込んでください。練習してください。それができれば十分です。