memorandums

日々の生活で問題解決したこと、知ってよかったことなどを自分が思い出すために記録しています。

知的生活のすすめ?(個人メモ)

ちょっとした思考メモ。あくまで個人的。。。だけどどこかに書くと忘れそうなのでブログに書いておきます。

興味が涌いて行動することは決して悪いことではない。何かを考えるときに幅が出る*1。ただし、うろついてばかりでは単なる冷やかしか徘徊者になってしまう。それまで得た知識や体験や技術を結びつけるのは「思考」であり、その「思考」の出発地点である「疑問」である。

普段の生活の中で気づいたり感じたりしたちょっとした「疑問」。なぜそうなるの?どうして?その「なぜ」を解消するには仕組みを理解する必要があり、理解するには自分なりに納得する必要があり、納得するためには何となく雰囲気で納得するのではなく説明できる必要がある。説明するには言語化が必要である。言語化するには知識が必要であるから勉強するのである。反射的にぐぐって一発で答えが出るものはこのうちには入らない。

疑問を出発点として、勉強によって得た知識を1つずつ積み上げながら「説明文」を構築していく。説明する仮定では先人の知識や技(既存研究)を利用する。そのまま説明が運良く完結すればいいが、運が悪ければ(良ければ?)未知の部分(溝?)ができる。その溝を埋めるのは仮説であり、仮説の正当性を評価するための実験である。

何となく意識している「疑問」をはっきり認識できるようになれば、それは個人的研究のスタートであり、個人的研究を進める柱になるのが「説明文」の構築である。

「説明文の構築は特別なツールも技術も必要ない。メモ紙やノートに疑問に思ったことを書き、その疑問を自分なりに自問自答しながら説明してみるのである。自問自答の中で強引な説明(根拠がない、飛躍等)がなくなれば、それは自分なりの理論であり十分に客観性が主張できるなら(主張できるかどうか自信がないときも)既に言語化されているのだからブログなり論文なり著書なりにすることは比較的簡単だろうし、大きなことを言えば人類に貢献できる貴重な情報の1つになるだろう。

研究者はこのようなことを生活の生業としているわけだが、紙と鉛筆があれば誰でもスタートできる苦しいけど楽しい遊び。インターネットや図書館や問題意識を共有できる人々がいるとさらにベター。

まず自分なりの疑問があるはずで、疑問を感じる自分を発見してみるところがスタート地点のような気がする。卒業研究のテーマを決めるときに私は決まって「疑問」とか「不満(面倒だから何とかしたい)」といったものがないか訊ねるのだけど、ほぼ全員の最初の一言は「ない」である。よっぽどリア充しているんだね。。。と茶化すわけだが、インタビューを重ねているうちにそれなりに形になるわけで。意識していないだけで「疑問」は必ずあるはずなのね。脱線しそうなのでこの辺で。

*1:本来なら最後までやりきらなければ(=研究まで昇華)ならないのだがその前にやる気が失せてしまうのが中途半端な悪いところ